ドン・ラビット

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最近作った飯

最近作った飯の写真です。盛り付けも写真もてきとーですが・・・。せっかくだしカッコよく撮ってみるかとも思ったんですが、やろうとしたらかえって何の写真だか分からんぞ状態になったので普通にホイホイ撮った感じです。そう考えると、インスタとかフェイスブックに料理の写真あげてる人すごく写真上手だな~と思う。もちろんアプリなりなんなりを使っているんでしょうけど。でもその技術と言うか、そこまでして綺麗な写真撮るのかみたいな熱がすごいなー自分なんかは逆にそういう写真を見ると、なんか作り物みたいな感じがして「綺麗だな」とは思うけど「食べたいな」とはそんなに思えない。というよりその写真をあげた人が美味しそうに食べている様子が想像できない。たぶんあまりにも「完成」されていると、なんというかその人が作ったんだなという感じがしない気がするからかもしれない。ファミレスとか冷凍食品の写真のような、美味そうな料理です感は読み取れるんだけど、そこからそれを作った本人が抜け落ちちゃっているような・・・「作り物」だなっていうのはそういう感覚に近くて、写真だけど食い物だとは見れない感覚と言っていいかもしれない。むしろ自分が「ああ美味そうだな」と思える料理の写真は、そういう「作り物」っぽさがない、生活感が出ているようなものだ。ああコイツ今日はこんなもの食ってるな、みたいな。その写真を見るだけでその人が台所に立って食材を切ってる様子とか、頑張って部屋の汚い部分を映さないように机を片付けている様子とか、美味い美味いとガッツいている様子がパッと想像できるようなもの。そういうのが感じられる写真って、作り物っぽさがないなあと思う。適当な盛り付けとか、散らかってる部屋とか、早く皿食器洗えよみたいなキッチンが映っていた方がかえって美味しそうに思えるんだよなあ。まあ「いいね!」は稼げないだろうけれど。

今日思ったこと。1月5日

 今日は良い気づきがありました。議論ていうのは何がしか決着とか結論とかを出すものと言うより、むしろ議論する考え方同士がどれだけ異なっているかを分かる作業であるという考え方です。 ここには、考え方の相互理解なんて不可能で、むしろそんな一致を想定すること自体危ないというのがあると思います。でも少なくとも「自分と相手はこれだけ違うんだな」という分かりは共有できる。理解不可能という理解はお互いに出来て、議論による橋渡しがあるとすればそこだ、という考え方。 今日はこれでだいぶ救われました。というのも僕は、「議論」というのは何かしら考えの一致や融合をしなきゃならない、何か結論を出さなきゃならないものだと思っていて、それでかなり気分が重かったからです。 何がしか考え方の一致や融合をしなければならないので辛いのは、理屈ばかりがどんどん先に進んで、結局自分自身が置き去りにされてしまうんじゃないかと思うところです。それぞれが持つ考えって、やっぱり単純な理屈で出来てるわけではなくて、その考えの持ち主の経験とか思考とか感情とか、そうした細かい部分の積み重ねの上にあるんだと僕は思ってます。例えば「ダイエットは意志の問題だ」とか「話し合えば分かり合える」という信念も、単なる理屈というより本人の経験や実感が強く関わって出来ているはずです。その経験や実感は本人自身のもので、そうホイホイと一般化・データ化できるようなものではない。 でも何か考え方の一致や融合を導こうとするやり方は、そういう微妙で曖昧でいわく言い難くて、でも実は根本的に重要なものを無視して切り捨ててしまうんじゃないかと思うのです。極端に言ってしまえば本人の経験も実感も切り捨てて「ダイエットは意志の問題だ」だけにする感じ。議論を重ねていくには、どうしてもそこに出されているものを論理的にまとめなければなりません。一致や結論を目指そうとするなら尚更でしょう。そうなるとある考え方の持ち主の経験とか実感は、いわば余計なもの、不純物としてどうしても無視されざるを得ない。議論が手早く進むように分かりやすくに加工されてしまうんじゃないか。 だからいくら議論によって考えの一致や融合を図ったところで、それはなんだか当人自身からブチブチ切り離した理屈をこねくり回すだけ・・・そこからどんなに筋が通ったキレイな見解が出てきたとしても、それはもう全然現実味のないものにしかならないじゃないかと思ってしまうのです。なんというか、と言うより、何か根本的なところが置き去りにされたまま勝手に話だけが展開していくのをただ茫然と眺めるしかないという感覚です。置いてきぼりにされる感じ。自分が「議論」をしていてすらそうで、一体自分は何を話しているんだ?そんな気持ちになってしまいます。 そして何か結論めいたものが出てきたとしても、何というかそれはもう「全人類を愛せ」みたいに正直誰もやらなそうなド正論とか深イイ話みたいなものでしかなくて、そんな中古屋の啓蒙書コーナーに並んでそうな結論が返ってきても、何というか、ただただ唖然というか、虚脱感というか、なんじゃこりゃとしか反応できない。 それがもう嫌で嫌で仕方がなかった。 っていうふうに考えてたもんだから、「議論っていうのはお互いに違うことを確認する作業なんだ」という考え方はそのモヤモヤにスッと空気を通してくれたように感じたわけです。なんかすごく安心しました。 ホントマジで、本人とその人の考え方をバラバラにしちゃうんなら、もう宇宙の成り立ちとか数学の公式とか、そういう形而上学的な話の方がよほどマシだと思う。それこそ美味い牛丼の作り方でムキになった方がよほど平和だと思う。一致や融合を目指す議論はきっとこっち向きで、本人の人生や思想に直結するような話題でそれを目指してもMURIでしょというのが正直な気持ちです。逆にそこを分かり合えるみたいに考えちゃうもんだから「お前の考え方は悪だ」みたいに、理論の差異ですましゃいいのに面倒な争いが起こってしまうんじゃないでしょうか(極端な話ですが…)。 やっぱり人間「分かり合える」的な夢を持ちがちなわけで、だからこそ違うことを確認する、一致のMURIさを分かることって逆にすごく大事だな、と。仮に違う人同士が分かり合うとすれば、そのポイントはそこなんじゃないかなと思いました。 相互理解なんてMURIですっていう感覚の方が何だかんだやっぱりリアルだと思うし、そういう感覚を共有出来てた方が逆にお互い認め合えると思う。ああお前はこういうやつなんだね、自分とは違うね(だからどうこうしろまではいかない)って分かるだけでいいし、そこを分かるには結論出そうと先走ったら余計無理だ。