ドン・ラビット

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思うこと

自分が自分を守っているとか、見栄えをよく見せるために背伸びをするとか、そういうことは確かにダサいと言われればそうなのかもしれない。人がそういうことをやっているとやっぱりうわあとなることもある。でもそれってどうなんだろう。汚いんだろうか。悪いことなんだろうか。結局そういうことを考えるのも、自分のことを悪く思いたくないから逃げているだけになるのかもしれない。人を見下すとか、自分が安全なところにいたいとか、そういうことが許せないという人がいる一方で、そういうことをズルズル引きずる必要はないみたいなことをいう人もいる。じゃあどうすればいいの?っていう話でもないと思う。別々の方向から小突き回されているような気持になる。けして深刻な話と言うわけではない。だがああそうですかというとそうではないとなる。自分に嘘をついてしょーもない人生を送ることになるとしても、どのみちそれは自分の人生なんじゃないか?という気持ちにもなる。しょーもなくて何が悪いんだろう。いつか友達が、問題は問題にするから問題になるんだということを言っていた。だが言う方は言う方で問題だと思って問題のまま通り過ぎることができないというだけなんだろう。ちょっとした発言とかからお前は卑怯者だとか考え方が汚いだとかいう話に突然ぶくぶく広がって飛び火して、それで萎縮するとまたそうやってコソコソ隠れて恥ずかしくないのかとなる。反省もダメ、あやまってもダメ。すべては自分が正直にあるということなのだとおもう。だが正直にモノを言った途端、もっとひどいことになるだろう。自分の正直な欲求としては、まさに安全なところでそれなりに楽しくぼんやり生きていたいからだ。だからそのうちもう何を言っても無駄なのではないか?という気持ちにすらなる。もちろんこちらから状況を全部コントロールすることなんて無理なのだが。でも自分がそういうモヤモヤした雰囲気をまとっていることが既に言われるのかもしれない。まあ自分からすれば詰められた翌日にはいケロリとなれますかいって思うけれど。どうしても。しかしやっぱり誰だってモヤモヤしたうす暗い雰囲気をまとっていたら嫌だなあと思う。たぶん悪循環になっているのはそういうところなんだと思う。たぶんに被害者的意識でしかないのかもしれないけれど。やられた!と言う方からすれば、それこそ友達が言った「問題にするから問題になる」で、ちょっと工夫して何とかやっていける方法なんて考えれば無限に出てくるのに、そこを何でお前の生き方の問題だとかエゴが肥大してるだとか自分に嘘をついているだとかいう話にワープするんだ!?おまけに許せないとか可哀想とか汚いとか言い出す。勘弁してくれ一体何がどうなっているんだ?????という気持ちしか出てこない。エゴを抱えた自分は汚いのだ!とか悪いのだ!!みたいに思わなきゃいけない!!と力むのも(どう頑張ってもここはなかなか腑に落ちない。話としては分かるけど)、結局はそういう気持ちが大きすぎているからなんだろう。そういう態度は人に迷惑をかける、とか、人の不快感を買いやすいから控えた方がいい。という理屈ならすごくすごく分かるしすごくすごく納得できると思う。のに。が、そういう条件付きの気持ちの話となると根本的に違う。ということを書いているうちに寝てしまったらしく、朝になった。まあ気の持ちようって問題なのかなあ。元気になろうと踏み切れないのはやっぱりそうするのが怖いからなんだろうなあとは思う。ああいう話になった時、まあ確かに深刻といえばそりゃ深刻なんだけど、自分が深刻モードになっているのも確かなんだよな。あるいは反省モードになってるというか。ほぼ自動的にそうなっている。当然誰だってこういう話になればえー何で!?って気分も沈むしモヤモヤするんだろうけど。もちろん反省の意を表明するからゆるしてちょーだいっていう気持ちが明確にあるわけじゃない。が、なんとかくああ今深刻な状況だから深刻になっておくかってなってるのはあると思う。結局それは自分で決めれてないってことなんだろうな。まあきっついけどなあ。でもそういうモードに入ってる時って、確実に考え方も出てくる言葉もほぼいっしょなんだよなあ。そういうモードにまかせてるから毎回変わらない、みたいなことになるんだと思う。まあこうなると自分の状態が全部モードなんじゃないかとも思えてくるし、この文章だってどうしよう的なモードにまかせて書いてるのかもしれないけども。少なくともその瞬間はけっこう必死なんだけどね。結構考えるけども。今思うことは、とりあえずそういうモードに入ってるなって自分で自覚することと、分からないなら分からないって言うし、腑に落ちてないなら腑に落ちてないって言おうってことかなあ。どうなるかなんて先回り出来ないしね。

さっき考えたこと

 起こることって、たぶん何でも今の自分を多かれ少なかれ(基本的にはよりよい方に)変えるきっかけになるものだと思っている。仮に本当にそうなら、出来事に対してすごくストレスを感じる時、それは今自分が抱えてる執着心とか変な自我が抵抗してるか、あるいは抑え込まれてる本音が助けて!って言ってるのかもしれない。 執着心とか自我の抵抗も無く、本音も出せているなら、起こることに対して淡々と応じることが出来るんだと思います。おお、これは自分にとってどうでもいいことだな、とか逃げるべきだな、とか、苦しいけど向かわなきゃならないな、とかがちゃんと分かるというか。邪念がなくクリアーだとそれが分かる。「本音」って言うと思っていることを全部言うみたいな感じもしますが、そうじゃなくて自分が感じていたり思っていることを素直に自分で心の中で認めてあげるっていう意味合いで考えてます。 ブートキャンプでビリーが「苦しい時こそ踏ん張り時だ!」って励ましてくれるんですけど、苦しい時ってある意味で自分の状態を知るきっかけなんだと思います。「ピンチはチャンス」みたいなバリバリ体育会系みたいなことは言いたくないですが(ブートキャンプやってるけど)、苦しい時は自分を守ろうとする生命維持の反応がはっきり出るので、そこで「あ、自分こうだな」ってことをかなり具体的に体感できるのです。この前一週間くらい断食をやっていた時も無闇に「食いたい!食いたい!食い物はどこだ!!」って感覚になって、ああ僕は不安や手持ち無沙汰を埋めるために間食しまくっていたのかと気づきました。 そういう意味では苦しい出来事とかストレスな状況って、単に嫌なだけじゃなくて自分の弱点を発見して強化できる機会だと捉えると少しは楽になるかもしれません。まあ理不尽なことはあるし、こう捉えたからって嫌な状況にいる時にそれに感謝なんてしたくもないですけどね。嫌なことは無いに越したことはないですが、まあ風邪みたいなもんでいつ来るか分からないし、乗り越えればそれなりに強く(?)もなってるわけです。 そーゆーの、ほっといたらツケが溜まって大変なことになるんですね。部屋の掃除も病気も一緒なんだと思います。身体でさえ食ったら出すのです。スティーヴン・キングの小説に、天に向かって拳を振り回して罵倒するのもいいけど、一日一時間にしとけって言葉があったけどホントそうで、さっさと対処しろってことなんですね。 嫌なことがあった時、神様だか悪魔だか社会だか上司だか何かのせいにして「死ね!!!!!!!!!」って言うのはまあいいと思うんですよ。こちとら望んでもないのにこの世に生れさせられてるんだから。でも生きてる以上健康で楽しくないと損なので、嫌なことには嫌々でも対処しなきゃならんのだと思う。まずは感情をスッキリさせて、さてどうしようかってやる。 部屋をキレイに清潔に保つのと同じかもしれません。自分の部屋も自分の身体も自分の心も自分の脳も。ヤバいことが起きたら、まず自分を変えることで対処しなきゃ。…っていうかどうにか変えられるのってせいぜい自分くらいしかないんだと思います。めんどくさいですけどね。でもゴミを片付けて散らかってるものを整理して要らないものを捨てて必要なものを入れたら絶対快適なんすよ。 僕の友達が言ってた「現実は現実、それ以上でも以下でもない。そこを分かってから始まるんだ」はほんとそうだと思うなあ。それを「現実は苦だ」とか「人生はゲームだ」みたいなことを言うから余計な感情が生まれるのかも。現実は苦でもなければ素敵なものでもなく、ゲームでもなければ神様の操り人形でもない。現実は単に現実でしかない。いいことがあったらよかったなと思い、嫌なことがあれば対処する。まあそんなふうに言えばゲームなのかもしれませんが、そういうふうに淡々とやっていくのかもしれません。動物だってそうしてるし。 余談ですが、現実に対処するためには自分が変化するしかないっていう意味では、自殺もある意味その対処法の一つなんじゃないかと思います。やり方が悲惨で悲しいだけで。あれだって現実からの(自分からの)ストレスを無くすためにやるわけなので。他に方法があれば当然そっちを選ぶと思います。自分なりの対処の方法を増やしていくのも成長と言えばそうなのかもしれません。やっぱり方法が増えれば対処もできる=強いでしょうから。 自分を変えるのは部屋の掃除と同じように面倒でしんどい。だって、今までそのやり方でよかったのだし、現状「まだ」、「そこまで」困ってないから、まあこのままでいいじゃんって考えがちなんだと思います。だから古いモノやゴミ(=今までの考え方、引きずってたアイデンティティ)をなかなか捨てられない。多少愛着もあるし… でもそれが今現在自分が困る原因でもあるし、明らかに将来困る原因なんですよね。その「捨ててもいいのに捨てられない」って、すでに「困る」が始まってることなんだと思います。それを掃除しないと、例えば部屋のシミになり、臭気も出、衛星状態も環境も悪くなる。当然自分自身の気分も悪くなる。少なくとも本当に大事なものなら捨てても戻ってくるし、本当に大事なものが大事だと本当に気づくには、周りのぐちゃぐちゃを掃除して初めてそうなるのだとも思います。大事なものをぐちゃぐちゃの中に置いときたくはないですからね。 僕も高校まではめっちゃガンダムのオモチャを集めてました。でも大学受験の時にずっと触らずにいたら「なんかもういいかな」という気持ちになって、DVDもプラモも漫画もゲームも、全て売るか、いとこにあげるかしました。もちろん嫌いになったわけじゃありません。今もガンプラだけはちょこちょこ作ってるし(要するにロボのプラモが好きだったのかってことに気づきました)。なんかそれは「もう十分楽しませてもらったな」という気持ちに近い。卒業、みたいな感じ。そしたら前よりもっと素直に楽しめてる感覚さえある。 偶然的にしろ意図的にしろ、掃除は大事だと思います。それは単にモノとか考え方とかそのものを捨てるんじゃなく、厳密にはそれらへの執着を捨てるってことなんだと思います。これに関して昨日友達が言ってましたが「「そうは言っても」じゃなねえ、やれよ!!」なんです。誰だって綺麗で清潔な部屋に住みたいはずだと思う。ゴミ屋敷に住んでる浮浪者も、物を溜め込みがちな老人たちですらそうだと思う。だったら普通の人達をや。やるしかないのだ。