分かっちゃいるのにできないのは何故?

「分かってはいるのに…」と、こういうふうに思ってしまう経験は誰にでもあると思います。明日やろう!と思ったことを結局やらなかったり、やり方を学んだはずのにまったく行動に移せない。決して珍しいことではないと思います。

勉強、運動、ダイエット…あと掃除とか自炊ですかね。だいたいこの辺りは「三日坊主」と言いますか、やる気をもって始めたはよいが面白いくらいに挫折する代表選手でしょう。

どうして私たちは、こうにもまあ易々と出来なくなってしまうのでしょうか。それから、それの原因というか背景が分かれば、やる気を持続させるきっかけにはなるんじゃないか・・・今日は何となくこの辺のことを考えてみたいと思います。


これは私の画像フォルダにあった写真です。3年前くらいのクリスマスの日に、近所のスーパーで値下げされていたお菓子を爆買いしたもの。クリスマスのスーパーは楽しい値下げ商品がたくさんあって楽しいですね。もちろんこういうことをしてるとでぶでぶの森になる。

なので私もいろいろと痩せようとはしているんですが、まあ見事に続きません。続かないからこそこういうことを考えるわけですけど。なかなかタイヘンデスヨネー・・・


さて


最近は便利なもので、私たちの周りには様々な「how to」情報がたくさんあります。ダイエットの方法や冷え性を治す方法、集中できる勉強方法から時間のかからないお掃除法まで・・・。「ダイエットしなきゃ!」、「文章が上手くなりたいな」、私たちはそう思ったとき、「どうすればいいのか」の情報を、本、テレビ、インターネット、セミナーなどを通じて簡単に無限に手に入れることが出来ます。しかも、場合によっては無料で。

しかし、出来ない!全然実行に移せない!これはいったいぜんたい何故でしょうか。そして少しでも実行に移せるように成れるとすれば、どのような解決策があるのでしょうか。


【意志の問題?】

一つ考えられることとしては、意志の問題だ、というのがあるでしょう。「ダイエットが長続きしないのは、お前の意志が弱いからだ!」というのはよく言われることだと思います。つまりはいざ行動しようと思っても、いわゆる「やる気」が低いから実行できないということです。面倒くさいとか、ちょっとくらいサボっても大丈夫だろうとか、そういう誘惑につい負けてしまう。だから長続きしないどころかそもそも始めることすらせずに「この方法は自分には合っていないかもしれないな」と、もっともらしい言い訳をして別の方法を試す・・・この繰り返しになる。最後には「体質の問題だね。自分にはそもそも向いてなかった」と諦めてしまう・・・。

しかし、やる気そのものが問題なら、それはある意味本人の気持ちとか心の問題ということになり何だか元も子もないように思ってしまいます。そんな根性論めいた話は、今の時代に言ったところで人を嫌な気持ちにさせるだけでしょう。意志が強い人の持論じゃん、強くてヨカッタデスネーウラヤマシイワーで終わる。そんな意志があったら欲しいわ!けれども、やる気のないままダイエットをしても無駄なのはやはりその通りだと思います。ここにはどのような問題があるのでしょうか。


【自分に合った方法ではない?】

もしかしたら、ダイエットの具体的な方法とやる気がしっかり噛み合っていないという問題があるのかもしれません。つまり、あることをするための一つ一つの「やること」をある程度意識できていないために、どこかでつまづいてしまうのではないか、ということです。もうすこし具体的に書いていきます。

ダイエットという行い一つとっても、その中には様々な「やること」があります。例えば運動をする、食事を減らす、といったことです。「ダイエット」という行動は、そうした一つ一つの行動の積み重ねによって達成されるものです。ですので例えば「運動をする」にしても、一日どのくらいの時間、どのような運動をするのかということがはっきりしないままには、なかなか実行に移したり継続することが難しいのではないでしょうか。だからそれらを積み重ねることが出来なければ、結果としてダイエットを達成することも出来なくなってしまいます。ある一つの「やること」の中には、それを作り上げているさらに細かな「やること」がたくさん含まれているわけです。このことは運動でなくても、例えば料理(買い物+調理+皿洗い+…)や掃除(道具の用意+整理+ごみ捨て+…)で考えてみても明らかだと思います。

そうすると、仮に自分が「ダイエットをするぞ!」と思い立ち「ダイエットすること」にやる気を出したとしても、よくよく見てみると「ダイエット」の中身である運動や食事制限といったそれぞれの「やること」にはやる気が向かっていない場合がある、と考えられます。そしてここが「つまづき」のポイントなのではないでしょうか。例えば他に料理で考えてみても、まず買い物を面倒くさがれば材料がそろわず終了してしまいます。掃除にしても、床のモノを放置したままでは掃除機を使えません。

いざ何かをしようと思いたった時、それを達成するための「やること」が意外にも多い!ということは誰しも経験したことがあると思います。私も子供の頃、「夏休みの宿題」はすぐに片付くだろうと慢心して毎年焦ったものです。現在も一人暮らしをしていますが、上の例に出したように、「掃除」、「料理」、「洗濯」というものが如何に多くの「やること」の集まりであることかを実感しています。家事をしっかりこなす人は本当に偉い。

超余談ですが、カントというドイツの哲学者は、人間は「やること」が具体的に決まっていれば、それを行動する際のしっかりした基準にすることが出来ると言っています。逆にそれがぼんやりしていると、行動の基準が定まらないのだそうです。カントはあやふやな行動基準の例として「幸福になるべし」というものを挙げます。「幸福」というのは個々人によってバラバラだし、そもそも自分にとって何が幸福なのかははっきり確実には分からないのだから、これは行動の基準としては弱いのだとカントは言います。逆にものすごく確実な行動基準としては、数学の証明や図形の作図があるでしょう。何をどういう手順で、どういう道具を使ってするべきなのかが明確であるため、やろうと思えばその基準に従ってすぐに出来るわけです。

 行動の基準があやふや…うう、耳が痛いし心臓も苦しいです。若干長くなってしまいましたので今回はここまでにします。次回は続きとして、では自分の「やること」をはっきり意識していくためにはどのような工夫があるのか?ということを考えたいと思います。

たいやいねっと

日々、おもったことを書きつづっていくやい。

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