自分の弱さを八つ当たりするのは不毛だなあ

 最近思うのは怒りとか義憤とかにもいろいろあって、その一つには自分の弱さの裏返しっていうのもあるんじゃないかなということです。自分自身がそういうところ大分あるなぁと思うから書いてみます・・・

 怒りとか憤りには確かに「ズルイ!」とか「不正だ!」とかみたいに、本当にズルくて横暴な力が振り回されていて何も出来ないことから来るものもあるとは思う。僕が今回描くのはそっちではなくて、自分が何もしてないのに、その弱さを「〇〇のせいで出来ない」みたいなに正当化とか転嫁をしてるようなパターンです。

 「しない」と「できない」は一見同じことに見えるんですが、僕は「しない」というのは能力とか身体的な問題ではなく意志の問題に分けられると思う。朝起きるのがメンドクサイとか、自分の思ってることを言わないとか、こう、何かそれをやるに当たってものすごい制約があるわけではないけど、自分からその行動に制限をかけてしまうような選択のこと。「しない」というのはいわば、身体能力とか環境といった外からの制約ではなく自分=内から来る制約によって行動に制限をかけてしまうこと。めんどくさい、怖い、損したくない、傷付きたくない、嫌われたくない、・・・こういう気持ちは外からやってくるものではなく自分の中から生まれてくるものだ。

 そういうのは言ってしまえば欲なんだと思う。僕なんかは人から嫌われたくないし、もっと言うと場を盛り上げるような人になりたいとも思うし、あと周りよりも自分をよく見せたい気持ちがすごいある(それは人以上だと思われないと周りから受け入れてもらえないみたいな恐怖があるからだと思うけど)。けどその気持ちが足かせになって、積極的な人が多いところで発言できなかったり萎縮してしまったり、そうやって緊張するあまり自分のことでいっぱいいっぱいになり他のことに全然集中できなくなってしまう。結局求めているものとは真逆のことにしかならない。でも、そういう時に自分がつい思ってしまうのは、「自分はこんなに頑張ってるのに何で上手くいかないんだ、これはおかしい!理不尽だ!」なんですよね。自分でやってるんだけど、自分のせいにしたくない。だから何処かとか誰かとか、自分の外に「〇〇のせいだ」を求めたくなる。

 そういう気持ちになるのは、自分が対価を払ったのにそれが拒否されたから。然るべき対価(僕なら自分の時間を使う、その場に合いそうな言葉を言う、云々)を出したのに品物が手に入らないのはやっぱり納得いからだ。品物が欲しくて対価を払ったのにそれがもらえないのは、商売で言うなら明らかに詐欺だろう。評価が欲しいから頑張ろうとするし、褒められたいから役に立とうとする。認められたいからパフォーマンスをする…それが保証されないなら、そもそも何もする意味がないじゃないか。と。 

 でもよくよく考えてみると、その品物も対価も取引そのものも、なんか勝手に自分が作り出してるだけなんじゃないか?他人に嫌われたくないから気を遣ったり何だりの対価を払ったりするけど、その人がどうするか(対価に対して品物をくれるかどうか)は分からないし、そもそもこっちが操作できるものじゃない(何かを払ったとしても!)。人から評価されようとして発言をしたり上手いことを言っても、評価がもらえる保証はそもそも無い。というかそういうことを気にしている時はだいたいもう毒にも薬にもならないゴミクソみたいなことしか言えない。やっぱり自分が求めているものと逆の結果にしかならないんだな。

だから余計にいじけて「自分は頑張ったのに…」と未練がましく被害者ぶる。そう考えるとそういうのって超不毛なんだよなあ。「こっちはこれだけ出してるのになぜ寄こさない!」という怒りやいじけは単なる恨逆恨みでしかない。自分の弱さで自分がけつまづいているのを八つ当たりしているだけ。

 もちろんそれを引き起こしているブレーキ?制約?が言うことは一見もっともらしい。「だって〇〇が起きたらヤバいじゃないか!」とか、まあ僕で言うなら「仲間はずれにされるかもしれん!」「嫌われる!」「バカだと思われる!」え3w5う89んjん・//6オ46・・・・云々。だから「やるな」!になって、だから出来ないとなる。でも今日いろいろ考えてきたことから言うと、それは「出来ない」というより、「やらない」というより、「やりたくない」ということなのだ。それを僕の弱い心は、ずる賢くもっともらしい衣を被せて「自分とは関係ない外の影響で出来ないんですよ」という言い分にすり替えてしまっていたのだ。 

自分で言っててすごく苦しいんですけど、まあ、なんというか、自分が弱いならうわ~自分弱いなぁでいいじゃんって感じなのかなと思う。やりたくないならやりたくない、興味が無いなら興味がない、怖いなら怖いでいいじゃん。ほんとに。

 ニーチェが嫌ってたルサンチマンってたぶんこういう人の特徴だったんじゃないか。ただ弱いんじゃなく、ただ悲観的なんじゃなく、自分の弱さを隠そうとしたり我慢ばかりして生きていていながら「どうせ世界は苦痛しかないよ」とか「どうせ我慢して生きるしかないよ」言って自分の弱さをどっか別のところのせいにしてる人。それどころかそういうことを気にせずに楽しく生き生きしている人をひがんだり逆恨みして攻撃したり非難したりする人。もちろん、そういう部分は誰にでも少なからずあるんだろうけど。でもこれで無駄に苦しんでるのってやっぱり不幸だよなあ。

 結局は自分の弱さや劣等感を認めたくないから取り返そうとしたり、そうじゃない自分を理想にしてそれと一致しようとしてしまうんだな。要するに自分自身を好きになってないわけ。自分が嫌いなんです。でも自分から自分を切り離すことは出来ないから、せめて嫌な自分を殺して、自分を見ないようにしている。

でも劣等感とか弱さって、それ自体は実はそうそう大したことでもないのだ。勉強が出来ないことも太ってることも自慢できる特技が無いことも、賢くないことも場を盛り上げることが出来ないことも、視力が弱いことも全然何でもない。人がいちいち気にすることでもなければ道徳的に悪でもない。自分がそういう特徴を持っていたからといって自分自身がデブという生き物になるわけでもなければ、バカという生き物になるわけでもない。まして悪人という生き物や嫌われ者という生き物になるわけでもないのだ。本当に。それを、自分がそういう存在になると思うから必死にそう「ならない」ように「されない」ように、あるいはだからこそ理想の存在に「なる」ために、小手先の延命措置をしてしまうのだ。だがそこで自分がエネルギーを注いでいるのは、勝手に作り出された妄想に対してだ。その間に自分が見ようとせず押し込んで黙らされている自分は、栄養が与えられず死んでしまっている。

 自分が持っている変な思い込みとか恐怖を取らないと(あるいはそれに捕らわれないようにしないと)、いつまでも悪循環から抜け出すことは出来ないし、自分の人生はほとんど死んだままだ。前のやつにも書いたと思うけど、自分の劣等感とかは単なる特徴を変な価値基準で捉えてるから出てくるんだということをちゃんと腑に落として、なあんあだ、それはただの物語じゃないかというのを理解することが自分を取り戻す一つの手がかりだと思う。誰かが勝手に作って押し付けてきた物語を生きるんじゃなくて、自分が歩いた人生がちゃんと自分の物語になればいいなあ(「物語」は誰かが作っているわけではないが誰もが作っているとも言えて、誰かが押し付けているわけではないけど誰もが押し付けているとも言えると思う)。

あ、そうか。そもそも受け入れられないなら何をやっても同じじゃないか。あ・・そうだそうだそうだ・・・・

頭が悪くて何が悪い!って言えれば楽になるわよねえ~

これは他人にむかって言うというよりは、むしろ自分に向かって言うものなんだな。気にしてコソコソ生きてるちっぽけな自分に対して言うものなのだ。

っていうか、まあまずは美味しいもの食べて気持ち良く運動してぐっすり寝て好きなこと出来たらその一日にありがとうと言って自分の体をおもっきし大事にしてあげることからかなあ。余裕が無いとね、何やってもあれだからね。そっから自分も好きになっていくわけだ。たぶん。

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