感情のままにワーってやろうと思うことがない。っていうのは自分の気持ちなのか?

今日は一年くらい前の飯の写真を供養します。

 感情を出すのがすごく苦手だ。大声をあげて笑うとか、思っていることを何でも言うのとかも苦手だ。でも苦手っていう言い方は多分違っていて、単に嫌いなのかもしれない。し、もっと言うとくだらないことだとも思ってるのかもしれない。要するに自分をオープンにするっていうことにものすごく抵抗がある。なんでだろ。
感情を出していくっていうのが(善・悪的に言って)悪いことだとは思ってない。でも自分がそうしようとは思わないのは何故だ?けど感情がダダ洩れですっていうのに対してウザいなと思うのは絶対あると思う。テレビでスポーツ観戦をして騒ぐのとか、みんなでワーみたいになるのに対して、やっぱり一緒にやりたいとは思わない。夜道で騒いでる人とかに対してすごい嫌な気持ちになるのはただ単にうるさくて迷惑だからだと思っていたけど、もしかしたらホントの理由は騒ぐってこと自体が嫌いだからかもしれない。すでにそういうことに対して「騒ぐ」とかいう言葉を当ててる時点でそれはもう明らかだろうなあ。やりたいのに出来ないからひがむっていうよりは、そもそもそういうことをどうでもいいと思ってるから、???ってなるんだと思う。嫌い、じゃなくて理解できない、だ。そうだと思う。
だったらどうでもいいって何で思ってるんだろう。確かに自分は何事もゆっくりやるし、ガンガンいこうっていうのが自分にそもそも特徴として無いだろうとは思う。でもたぶんスピードの話じゃないんだよな。多かれ少なかれ感情って出すもんね。感情を出そうっていう心持ちをもっていないというか…それも特徴の話に回収されるならそれで終わりなのかもしれないけど。

 ワーってやるのとか盛り上がるのをやろうとは思わないけど、でも楽しいからもう動いちゃってるっていう感覚は分かる。料理とか部屋の模様替えとか、アレを作ってみたいとか、あ、やってみようかなと思ったら割と何でもすぐやってる。その時はすごく夢中になってるし、確かにすごく楽しいのだ。たぶんその状態ってワーってなってる一人一人の気持ちと同じだと思うんだけど、僕は人といるとそうなれないのかもしれないって思った。一人の時に好きなようにやって楽しいのは、人目とか人間関係を気にしなくて済むからだろう。自分が好きなことは確かにだいたい一人でもできることばかりだ。

パーティーとか飲み会とかにすごく抵抗があるのは、感情を出すのが嫌いというよりも、人との関係を気にして疲れるからなんだと思う。もともと何事もゆっくりやるから、僕にとってのスピードと突発的な流れのスピードとかどうしてもズレる。それで周りに合わせようとするとただ疲れるだけで全然楽しくない。そりゃあ無理やりついていかなきゃ!みたいなことを思うと余裕なんて無くなるのは当たり前だ。運動できない人が運動会をクソだと思うとか、歌うのが大して楽しくない人が文化祭なんて意味ないと思うのと似てるかもしれない。出来ないから嫌い・・・をちょっと通り越して、いやあんなの意味ないでしょって言ってしまう。そういう気持ちがあるのかもしれない。

 ・・・・・・・・・だとすれば自分がつまづいているのは、周りに合わせようとする気持ちがあるからなのか?合わせようというか、「合わせなきゃいけない」という感じのほうが正直なところだ。周りがワーって盛り上がってるから、自分もワーしなきゃいけない、周りが楽しんでいるから、自分も楽しまなきゃいけない!そういう感じ。そういう気持ちを優先するから、自分の感情としてどうなんだっていうのは二の次になる。我慢しちゃうんだな。自分を押し殺すというか。そりゃあ疲れるし、そうなってしまう場が嫌いになって当然だよなあ。しかもある意味そういう構造では自分は被害者だから、自分が合わせなきゃならないと思ってる周りの人達に対して「こっちは合わせてやってるんだぞ」って気分にもなると思う。悪い循環だよなあ。

じゃあその場で周りに合わせなきゃって気持ちはどっから来るんだろう。自己評価の低さから?それともエゴなのかな。でもたまに言われるように、家の習慣が引き継がれてたりもするのかも。

 暮らしてた家の習慣が受け継がれるのはあると思う。実家は田舎で立場とかすごい気にしてたから、周りを見ろとかはあったなあ。エゴ・・・で言えば、その場を仕切りたがったり、口出ししたがったりもあるな。そのくせ自分で勝手に忙しい人ぶって「自分ばっかり忙しい」みたいなのを当てつけてくるのもあるな。やっぱりそういうのを見たり経験してたりすると多かれ少なかれ自分にもそれが移るんだろうな。あ、あとものすごく損得も気にするな。これもそれかも。でも家…かて親がそうだったというよりは、もう昔からそういうのが受け継がれてきてもいるんだろなとも思う。「やっぱりうちの子だ」とか「やっぱり〇〇さんとこの子らしいや」って言葉があるけど、それはその通りだろう。そういう意味では、特に虐待とか酷い扱い方をするような「毒親」に限らず、だいたいの家の雰囲気にはすでに多かれ少なかれ毒はあるんだと思う。それぞれの家にはいいところもよくない所もあって、やっぱりどんなに愛情がある家でもそういう部分はどうしたってあるんだろうなあ。

リーダーになりたがる、特別な人になりたいっていう気持ちはすごく強いなあ。なんか自分が苦しくなったり暗くなるのは、それが出来ない時が多い。でも実際考えてみると、特にリーダー気質でもないわけで、結局特別みたいに振舞っててもそれが出来なくても、なんかどっちも疲れるんだよな。気持ちとしてはそんなことないのに、そうしなきゃいけない!みたいな力みがこれとごっちゃになって、それが自分の気持ちとかやりたいことなんだと誤解してしまってる感じ。だから周りが自分よりも出来る人ばかりだと急激に焦り出したり出来る人っぽく誤魔化そうとするし、でもそんなことしても徒労でしかない。しょんぼりして暗くなって終わる。

そういう縛りを気にしない状態ってすごく楽だよなあ。その状態って理想的なんだけど、それは自分で変えるしかない。う~ん、(言ってしまえば)もともと自分のせいでもないのに、解放は自分がしなきゃならないというのは随分難儀な話だよなあ。まあでもそういうのはそれぞれ抱えてるっていう意味ではまあだいたい同じなのかな。状況によってそれが大したことじゃなかったりすごい問題な時もあるだろうけど。ワーやるのが嫌って、正直同じ「抱えている」ことだとしても随分不利益を被るアレだと思う。か~~~~~ヤレヤレ!

 まあでも今日は自分の抱えてるブレーキみたいなのが分かったからいいか。楽しい時は素直に楽しめばいいな。合わせようとしないでもっと自分を大事にしよう。

たいやいねっと

日々、おもったことを書きつづっていくやい。

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