自信に根拠が無いなら不幸にも根拠はない

言葉をかけると云々ってやつがTwitterでちょっと話題になっている。

「ありがとう」と言葉をかけると水がよくなったりするというやつだ。その効果がほんとかどうか知らないが、かなり本気で言っている人たち(写真付きで一生懸命ツイートしてる)と、どこにそんな証拠があるんじゃいとバカにする人たちとでわいわいにぎわっている。


思ったんですが、もしかしたら、言葉をかけて変わるものがあるとしても、それは言葉をかけた植物とか水がどうというより、言葉を言ってる自分の状態が変わるんじゃないか。

「ありがとう」って言ったらそういう気持ちで見るだろうし、仮に植物とか水が変化したとしても、それが「どんな」変化なのかを判断するのは自分だからだ。

どういうことかというと、例えば朝起きた時に「ああいい天気だなあ、うれしいなあ」と言ってから始まる一日と、「ああ今日もいろいろやらなきゃいけない、ああウンコウンコみんな死ねばいいのに」と言ってから始まる一日とでは、まったく同じ一日でも全然違うはずだ。では何が違うのか?それはその言葉を言った人の気持ちだろう。「うれしい」と言った人は一日を気持ちよく過ごせるだろうし、そうじゃない人はそう過ごせないと思う。

で、どっちにしろ「そういう」気持ちでいると、見るものや起こることを全部「そういう」フィルターを通して受け取るんじゃないかと思う。どんなに美味しい食事でも気分がクサクサした状態で食べても美味しくないし、逆に自分が幸せな気持ちでいればチョコ一つ、カップラーメン一杯でもすてきなご馳走になる。そういう経験は誰にでもあると思う。

だから「ばかやろう」って気持ちでいると何でもかんでも「ばかやろう」的に見えちゃって、ただの変化も「ばかやろう」的=悪い変化に見えてしまうんじゃないか。自分は不幸な被害者だと思ってる人が、起こることを全部悲観的に見ちゃうし合う人全てを敵だと見てしまうようなもんで。



とするなら、「〇〇の言葉をかけて育った植物」みたいな結果やデータに関しても、その結果が「いい」のか「悪い」のかは、実はそれを見るこっちが勝手にそう思っているだけなのじゃないかと思ってしまう。「ありがとう」と言葉をかけ続けたものには自然と「ありがとう」的な気持ちで見るだろうし、「バカ野郎」という言葉をかけ続けたものにはやっぱり「バカ野郎」的な気持ちで見てしまうのはごくごく当たり前のことだと思う。こっちがそういう状態というか、「ありがとうモード」とか「バカ野郎モード」になっているのだ。


そしたらその植物なり水なりのどんな変化も「ありがとう」的、「バカ野郎」的に見るだろう。ほんとは単なる変化でしかないかもしれない。もっと言えば変化してすらいないかもしれない。でも「あ、水が美味い!ありがとうって言葉をかけたからだ!」とか、「あ、葉っぱが欠けてる。バカって言ったからだ!」みたいに思うのはよくあることなんじゃないか。よくよく考えてみれば。「いやそれはお前がそういう気分だからでしょ」、という突っ込みは十分いれることが出来る。試しに「ありがとう/バカ野郎」と言葉をかけた植物の成長結果のラベルを入れ替えて知らない人に見せたら、反応はやっぱり「そういう」ものになるかもしれない。「ああ、バカって言葉をかけ続けたからつまらなく成長したんだね」、「おお、ありがとうって言葉をかけ続けたから生命をまっとうしまくって枯れてるじゃん。燃え尽きたな~」なんて普通に言えちゃうと思う。

あるいは「こういう言葉をかけた「から」こうなった」という判断すらそうなのかもしれない。別にこっちが何をしようが、そんなこととは関係なしに変化は起こっていて、それを見ているこっち側が勝手に自分がこれをやったのだとキャアキャア言ってるだけ、みたいな。


でも人間の判断なんてそんなもんなのかもしれない。そんなものかもしれないけど、その効果は絶大だ。

メタルバンドにマノウォーというグループがいる。彼等は2014年の来日公演の際、「日本のManowarriors(マノウォーファンの呼び名)は一人で千人分の力を持っている、マノウォーのTシャツを着ればお前たちは無敵だ」と言ったらしい。

こんなカッコいいこと言われたら無敵になるしかなくないですか?風邪だって治るしミサイルだって受け止められる気持ちにならないですか?つまりそういうことなんだと思います。言葉で物質は変る。ただし、変わるのはそれを言った当人なのだというのが本当のところなんじゃないでしょうか。もし目の前の植物とか相手に変化が起こったとしても、それは「ありがとう」とか「バカ野郎」という言葉によってではなく、その言葉を言ってる本人の状態が変化したことに対する反応なのではないか。「バカ野郎」なんて言ってるような人って絶対嫌なオーラを放っているし、そういう人と一緒にいて気持ち良くなれるわけがない。植物だって水だって同じだと思う。


そう考えていくと、根拠らしい根拠なんて実は大して無いような気がする。何事にも…特に気分に関して言えば。「~だから」なんて、ほぼ後付けに近い。「根拠のない自信」ってもよく言うけど、自信ってほんとのほんとに根拠なんか無くて、もし「~だから自信がある」ということが言えるとしても、それは自信があるんじゃなくて根拠があると思ってるってことに過ぎないんじゃないか。だって「学校のテストで一番だ」ということと「勉強には自信がある」というのは、別々のことだからだ。

「ああ今日もいい天気だうれしいなあ」って言って幸せになるのって、根拠なくないですか?そこに根拠求めてどうすんのっていうか。起きて「うれしい」って言うだけで幸せな気持ちに勝手になるし、美味しいものいっぱい食べただけでも幸せな気持ちになれる。ある意味、そこに何かの根拠を付けることは趣味の問題とすら言えるかもしれない。


そうするなら、例えば自分が不幸だ、自身がないというのも、本当は根拠らしい根拠なんてないと言えるんじゃないか。というか「根拠らしいもの」しかないんだろうな。幸せがそうなんだから。例えば「太っていること」と「不幸な気持ち」や自身のなさは全然別物だ。太ってたって元気な人はいっぱいいるじゃないですか。魔人ブウとか。美味いラーメン食べただけで簡単に幸せになれるんなら、実は言ってしまえば不幸だと言って落ち込んでいるのはバカバカしいことなのかもしれない。いや別物っていうより順番が逆とも言えるんじゃないか。つまり不幸だから太るというふうに言えちゃう。もちろん単純だけど威力は絶大なので、そこが厄介な所だ。たかが気分、されど気分。

って考えるなら、もはや自身だの幸せだの不幸だのすら無いのかもしれない。「結果」すらないのかもしれない。花が枯れようが、それは人間が勝手に時間を区切ってそう言ってるだけで、花からすればまだ途中かもしれないし、もっと巨大な視点から見れば、花は枯れても地球に帰るわけだから終わりでも結果でもない。

さて不幸に根拠が無いのだとすれば、むやみに不幸ぶっているのはもったいないことだと思う。なんとか幸せな方向に持っていけるようにしたい。で、幸せにも根拠がないなら、とりあえず幸せな気分になればいいのかもしれない。幸せな人が言うような言葉を真似してみるとか、幸せな人がやりそうなことを真似してみるとか。つまりマノウォーのTシャツを着ることですね。

                                    証明終わり




たいやいねっと

日々、おもったことを書きつづっていくやい。

0コメント

  • 1000 / 1000