「普通の人」という生き物はいない:単なる事実を単なる事実として受け入れるようになりたいなあ

 「男」とか「女」とか「大人」とか「社会人」って単なる分類の言葉でしかないのに、その言葉で人の在り方を縛りつけてしまうことってあるよなあと最近思う。よくあるのは「お兄さん/お姉さんなんだから我慢しなさい」とか「もう大人なんだから云々」、といった言い方だ。こうした言い方の後ろには、「〇〇であるならこうあるのが当然だ/普通だ/べきだ」のような価値基準が強く浮き出ていると思う。そしてその「〇〇なんだから××であるべき」みたいな考え方は、その言葉でもって人の人格も振る舞いも考え方も全部固定化してしまうんじゃないか。今日はそのことを書きます。

 「こうだ」「こうあるべき」のような基準や物差しを押し付けてその人の在り方や振る舞いを縛り付けるというのは、その人が持っているいろんなところを無視してしまうまなざしだと思う。 少し極端だけれど、例えばいくらあたたかく心優しい人でも、その人が「ニート」ならおそらくそれだけでダメ人間扱いされることはあるだろう。あるいは能力的にいろいろ苦手なものがあるのに、その人が「大人」や「社会人」であるなら「そんなことも出来ないのは甘えだ、心が弱いんだ」と言われることもあるだろう。こうしたことの背景には間違いなく「〇〇なら××であるべき」の考え方が働いている。もっと言うと例の人達がダメ人間扱いされたり怒られるのは、「〇〇なのに××ではない」からだ。「社会に生きる人」 「な の に」 「働く能力がない」ことは「あってはいけない」ことなのだ。

 同じことは「生徒なんだから」や「先生なんだから」、「成人なんだから」…等々、いろいろなことに言えると思うし、いろいろな人が経験していると思う。そしてそこで多くの人が思うのは、「もっと自分を見てくれ!」なんじゃないか。もっと言うと「私は「〇〇」じゃない、人間なんだ!」なんじゃないか。

 「先生」という生き物なんていないし、「社会人」という生き物もいない。あるのは単にそうした分類の仕方だけであり、言ってしまえば単なる事実だけしかない。

 にも関わらず僕らはそれらをまぜこぜにして、理想像に近づくのが「いい」ことと考えてしまっている。だからある人を男「という生き物」であると見てしまうし、ある人を社会人「という存在」であると見てしまう。

 

 こういう見方は全然本人のことを見ようとせず、全部わかりやすい「型」に吸収して理解しようとする。そしてその「あるべき」に当てはまらない、説明できない特徴は異常、間違いであるとする・・・

 嫌だな~と思うのは、そういう見方って誰かが誰かに対してやるっていうのもあるけれど、自分が自分に対してやる場合もあるよなあということ。

 「普通コンプレックス」という言葉があるらしいけれど、これは自分自身が「普通」からズレていたり、逆に「普通」過ぎて嫌だという劣等感らしい。まさにこれは自分で自分を物差しに掛けて、その判断だけで自分の価値を決めつけてしまう考え方なんじゃないか。 「普通」じゃない、そのことだけで自分を「出来ないやつだ」「ダメな人間だ」と卑下してしまう。 僕自身にもこれはすごくあって、視力が弱いことや太ってるという「単なる事実」に「普通ならこうなのに」という物差しを当てて、ああ自分はダメなやつだと落ち込んでしまうし、その「欠如」を取り返そうと変な頑張りをしてしまう。虚勢を張る、みたいな。そんなことをしても「取り返せる」ものなんてないのにね。ぎょえー辛い! こういう見方、考え方を克服できればすごく楽なんだろうなと思う。

 これを克服するには、やっぱり単なる事実を単なる事実なんだなと分かるようになることだと思う。あるいは「先生」という生き物も「普通の人」という生き物も、結局は理想や基準が作り出したものに過ぎないことを分かること。

 じゃあそのことを感覚として納得するにはさらに何が必要か。たぶんそれは、自分にせよ他人にせよ、人にはいろんな部分があることをちゃんと分かることだと思う。

 「男である」にせよ「太ってる」にせよ人には無限に「単なる事実」があって、そのどれか一つだけ取り出してその人のすべてを決めつけることは出来ない。それをやってしまうのは、まさに数ある事実のうちの限られた部分にしか注目しないから。それ以外のものを無視してしまえば、当然その部分の事実など目に入ってはこない。だから簡単に理解・説明できるもんだと思い込んでしまう(あるいは簡単に理解・説明したいがためにそういう考え方があるのかもしれませんが)。 いろんな「単なる事実」に目が行くなら、その人(自分や他人)を単純に説明したり理解できるとは思わないはずで、変な基準を持ってきたり謎の価値判断を押し付けないことが出来るのは、そういう視点に立って初めて可能になるんじゃないかと思う。「この人は〇〇だ!だからああでこうでそうなんだ、そうに違いない」ではなく「ああいろんな単なる事実があるな」、そういうふうに受け止められる地点。

 僕は東北の田舎出身なんですが、関東に来てよかったと思うのは、この「単なる事実」をたくさん知れる機会が増えたこと。自分にしろ他人にしろ、特定の「単なる事実」で人を決めつけてる暇がないというか、もっと言うと自分が今までウジウジ落ち込んできた「単なる事実」が本当に単なる事実に過ぎなかったことに何となく実感を持てるようになったというか。いわば「単なる事実」のサンプルが溢れすぎていて、もう特定の見方で人を判断することなんてできないんだなという実感を持つことが出来た。まだまだ完全にではないにしろ・・・

 同時に田舎的な「狭さ」ってこういうことなのかなとも思った。もちろん東北や田舎にいる人が全て固定的な考えを持っているとは思っていないし思いたくないですが、やっぱりそういう傾向が強いのは事実だと思う。「〇〇だからこうだろ」「これが普通だ」、そういう意識が強い背景には、「単なる事実」のサンプルが少ないから事実を事実のまま見れなくなってしまっているというのがあると思う。 逆に言えばそういう「狭さ」があるところは、物理的にどんなところであれ田舎的になってしまうんだろう。無闇に厳しい学校とかブラック企業とか。そういう見方・考え方が支配しているところって、場所であれ人であれなんか窮屈だし固いし、あと貧しい感じもあるなあ。

 書いてて疲れたのでそろそろやめます。たぶんこの話題にはときどき立ち返ると思う。

 

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